"I Am Who I Am'."(わたしはある)
四旬節第五火曜日の福音書は、ヨハネによる福音書8章21節から30節です。聖書を読むとき、とても難解な個所にぶつかります。特に24節にある『「わたしはある」ということを信じないならば、あなたたちは自分のうちに死ぬことになる。』もその一つです。私たちの会話の中で「わたしはある」という言い方はしません。哲学の授業の教材になら出てくるかもしれません。英語では"I Am Who I Am'."となるようです。このことばは、旧約聖書のモーセが神に問いかける場面に出てきます。エジプトで奴隷とされ、苦しみの中にあったイスラエルの民を救うためにモーセが使わされることになります。どうにかその大役から逃れようとしてモーセは神の存在をどう伝えようかと、「彼らに何と答えるべきでしょうか」と神に問います。神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」日本語で分かりにくい時は英語の聖書を開くと意外とわかりやすいこともあります。アメリカなどでは学校で出席を取る時、名前を呼ばれた生徒はYesとは答えません。I am!です。つまり「います」という意味。個人的な解釈となるかもしれませんが、「わたしはある」とは、「わたしはあなたがたと共にある」とすると、急に視界が開けてくるような気がします。一度置き換えて読んでみて下さい。
2017年4月4日(火)聖ヨゼフ学園中学・高等学校 校長 清水勝幸
「十字架の道行き」第11留「イエス 十字架につけられる」
第12留「イエス 十字架で死す」